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オーティス・レディング  悲劇に口づけされた男. 6

 投稿者:タクト  投稿日:2009年10月 3日(土)00時13分4秒
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       「心の底から、しぼりだすような激しい叫び。
      あなたの歌声は、今もぼくの胸に熱く響く」(忌野清志郎)

アメリカのソウルシンガー、オーティス・レディング(Otis Redding)。
シャウトと呼ばれる力強い歌いっぷりで、ソウルミュージックのカリスマと呼ばれたオーティス・レディングは、1941年ジョージア州で生まれ、1967年に伝説的な名曲「ドック・オブ・ザ・ベイ」を残して、26歳の若さでこの世を去った。

1950年代のアメリカ。
黒人は黒人専用の施設だけ利用でき、白人が使う施設には出入りすることは許されなかった。ホテルも学校もお手洗いも、乗車するバスの座席さえも肌の色によって完璧に住み分けられていた。とくにオーティスの住む南部は、人種差別がことのほか激しかった。
1955年のアラバマ州、公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒んだ黒人女性ローザ・パークス(当時42歳)が、人種分離法違反のかどで逮捕された。その後に波及する黒人のバス・ボイコット運動。
また、座り込み(Sit-in)運動のキング牧師が台頭していた。
人種差別に黒人がいよいよ立ち上がり、公民権運動が盛んになる、そんな揺れる時代にオーティスは生きた。

オーティスの父は日曜牧師として、町でゴスペルを教える偉大な指導者だった。
神への感謝を捧げるゴスペルは、かつて奴隷だった黒人が、つらい労働の間に歌ったのが始まり。
そんな環境の中で、貧しいながらも長男であるオーティスは、町の聖歌隊に入り、歌う喜びを知る。
やがてオーティスは、ロックン・ロールのリトル・リチャード(Little Richard、1935年生れ)と、パワフルなゴスペルを源流にしながらソウルを完成させたレイ・チャールズ(Ray Charles Robinson、1930年生れ)に影響される。
神への感謝を歌うゴスペルよりも、身近な人生の喜びをエネルギッシュに歌うソウルミュージックを、オーティスは好んで歌うようになるが、父はソウルを「悪魔の歌」として忌み嫌った。
勉強はそっちのけで、ライブハウスに通いづめて歌うオーティスは、町ののど自慢コンテストの常連になり、出れば必ず優勝した。
17歳で高校を中退してガソリンスタンドでバイトをしながら、朝から晩まで歌うオーティス。10セントのケチャップパンをほおばりながら、スターシンガーを夢見ていた。

そのころ、意外なファンがオーティスの前に現れる。
白人の兄フィルと弟アランのウォルデン兄弟だ。ウォルデン兄弟は、オーティスのライブを見て衝撃を受け、とうとうマネージメントを買って出た。
「オーティスのパワフルな歌を、初めて聴いたときから魅了されてしまった。そう、ほんとうに腰が抜けたんだ」
白人と黒人がいっしょに働くなんてありえなかった時代に、3人は意気投合した。
大人たちが越えることができなかった人種の壁を、彼らは歌を通していとも簡単に乗り越えてしまった。
だが3人の共同作業は、なかなか理解されなかった。
行く先々で白人からは白い目で見られ、旅先でも、白人のホテルではオーティスは入れず、黒人のホテルではウォルデン兄弟が泊まれず、結局3人は車で寝泊りしたこともあった。

食うや食わずの音楽活動をしていたオーティス。21歳のときにチャンスをつかむ。
1962年、オーティスがジョニー・ジェンキンズ(Johnny Jenkins 1939年生れ)のバックマン兼運転手として、設立2年目の新しい会社スタックス・レコード(メンフィス)にやってきた。
ジェンキンズのレコーディングの合い間に、オーティスは1曲歌わせてほしいと願い出る。
それが「These Arms Of Mine Otis Redding」(ジーズ・アームズ・オブ・マイン」。
社員のディニー・パーカー女史は、当時のことをこう振り返る。
「最初の印象は、とにかく地味。物静かだし。ところがひとたび、彼が歌いだすと、みんなびっくりした。その場でレコーディングが決定した」
のちにバックバンドでギターを弾くことになるスティーブ・クロッパーは、そのときを鮮明に記憶している。
「オーティスはスタジオに歌いながら入ってきたんだ。それだけで釘付けだったね。
せつない思いがした。ずっと彼の歌を聴いていたいと思った。
時間が止まった」
燃え上がる恋の情熱を必死に抑えているようなこのバラードは、翌年63年、スタックスからシングル盤として発売され、チャートは全米85位になった。新人としては異例だった。

オーティス・レディング「These Arms Of Mine Otis Redding」(歌っている映像は見つけられなかった)
http://www.youtube.com/watch?v=K-FQL-tJ3ic&feature=PlayList&p=0937E7CE384659AC&playnext=1&playnext_from=PL&index=27

オーティスは走り続けた。
週に7日のライブを要求。
白人からどんなに差別を受けても、言われてもけっしてケンカをしない。そんなことをしたら、相手の思う壺。
「黒人がやればソウルで、白人がやればロック?
そんなことはどうでもいいね。
とにかくおれは、人の前で歌うのが好きさ」
オーティスは酒もドラッグもやらない。ひたすら音楽だけ、次から次へ音楽をつくって歌っていた。
「シャウト(叫び)は魂の解放。魂で感じとってくれ」

オーティス・レディング「Try A Little Tenderness」(2分58秒あたりからオーティス独特のリズムの刻み、ガッガッガッガッガッガッガッとシャウトするよ)
http://www.youtube.com/watch?v=dael4sb42nI

レコードデビューから4年、オーティスは壁にぶつかっていた。
デビュー時に結婚した妻との間に子供にも恵まれた。金も稼ぎ、牧場つきの豪邸に住んだ。
バラードの名作「愛しすぎて」や「この強き愛」、ダイナミックな声を聴かせる「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」、「シェイク」「サティスファクション」、のちにはローリング・ストーンズにカバーされる「この強き愛」や「ペイン・イン・マイ・ハート」…
出す音楽はヒットはするが、爆発的なセールスには結びつかない。
いつしかオーティスは、「黒人には支持されるが、白人には支持されない」というレッテルをはられ、どの歌もトップ10入りまではいかない。
とにかくオーティスは、No.1になりたかった。

チャンスが巡ってきた。
1967年6月、西海岸で大々的に催された「モントレー・ポップ・フェスティバル」。
新しい音楽の祭典で、既成に捉われない白人のミュージシャンが集った。
サイモン&ガーファンクル、ジャニーズ・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレーン…。
そんななか、ソウルから唯一、オーティスが参加した。
ソウルなんて聴いたことない聴衆、人種の壁。
「やらなきゃいけない」
オーティスのステージは、4万人の聴衆を圧倒した。予想を上回る反響。
モントレーでの大成功のあと、オーティスは喉の不調を訴える。
ポリープ。
2ヶ月間、医師に歌うことを止められる。

歌えない期間、オーティスは新しい音楽を模索し始める。
カリフォルニアに行き、ヒッピーと生活を共にする。
1967年11月、療養を終えたオーティスは半年振りにスタジオに入る。
ここで彼が発表した曲は、今までとはぜんぜん違うものだった。
あのオーティス独特のシャウト(叫び)がない。
いつもの力強さがない。
シングル化にはみんなが反対した。
オーティスは「ドック・オブ・ザ・ベイ」の録音を終えたあとに、自信をもって言った。
「俺の初めてのミリオンセラーになるぜ」

録音を終えた翌日から、オーティスは周囲の困惑をよそに、自家用ジェット機でライブツアーに旅立った。
ナッシュビル、クリーブランドのコンサートを終え、次の公演地へ向かう。
1967年12月10日、オーティスとバーケイズのメンバー5人、マネージャー及びパイロットの8名の乗った双発機ビーチクラフトモデル18が、ウィスコンシン州マディソンに向かう途中、濃霧で滑走路を見失い近くのモノナ湖に墜落。
凍りつく湖に8名は放り出され、トランペットのベン・コーリーを除く7人が死亡した。

1968年、「ドック・オブ・ザ・ベイ」はシングル化され、ヒットチャート1位を獲得し、世界中で大ヒットをする。

オーティス・レディング「Sitting on the dock of the bay」
http://www.youtube.com/watch?v=UCmUhYSr-e4&feature=related

Sitting in the morning sun
I'll be sitting when the evening comes
Watching the ships roll in
And I watch 'em roll away again

朝日を浴びて座っている
夕方になっても座っているだろう
船が港に入って来るのを見ながら
そして船がまた港を出るのを見ながら

Sitting on the dock of the bay
Watching the tide roll away
I'm just sitting on the dock of the bay
Wasting time

港のドックに座って
潮の満ち引きを見ながら
ただ港のドックに座って
時間を無駄につぶす

I left my home in Georgia
Headed for the 'Frisco bay
'Cause I had nothin to live for
And look like nothing's gonna come my way

So I'm just...
Sitting on the dock of the bay
Watching the tide roll away
I'm just sitting on the dock of the bay
Wasting time

Look like nothing's gonna change
Everything still remains the same
I can't do what ten people tell me to do
So I guess I'll remain the same

Sittin here resting my bones
And this loneliness won't leave me alone
It's two thousand miles I roamed
Just to make this dock my home

Now, I'm just...
Sitting on the dock of the bay
Watching the tide roll away
I'm just sitting on the dock of the bay
Wasting time


     「時代のうねりの中でオーティスは、何を叫びたかったのか。歌にこめた思いとは、なんだったんだ」(忌野清志郎)

オーティスがじっさい、人気シンガーとして活躍したのは4年ほどの短い間だった。
しかし彼の残した多くの名唱は今、多くのミュージシャンに影響を与え、カバーされ、生き続けている。

オーティスは社会的なコメントや政治批判など一言も歌にしなかった。
しかし、彼の歌声は魂の叫びであり、黒人の叫びであり、人種を超えてわれわれに訴えかけてくる。

     「おれは高校のときに、オーティスと出会い、それからずっとオーティスのようになるのを夢見ていた」(忌野清志郎)


忌野清志郎「オーティスが教えてくれた」
http://www.youtube.com/watch?v=IgTSH8o5S20&feature=PlayList&p=842202F9AFD84D40&playnext=1&playnext_from=PL&index=26

【参考】「世界・時の旅人 君はオーティスを聴いたか 忌野清志郎が問う魂の歌」(NHK2006年1月20日放送)
 
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