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村山聖  悲劇に口づけされた男. 7

 投稿者:タクト  投稿日:2009年10月29日(木)18時28分18秒
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  第68期目を迎えた将棋名人戦・A級順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)が今年も始まっている。
羽生善治名人(38)を頂点に、A級10名、B級1組13名、B級2組24名、C級1組31名、C級2組44名(これ以外にもフリークラスや三段クラスもあるが)の5つのクラスからなり、A級の優勝者が羽生名人へ挑戦できる、ピラミッド型の将棋界。
5つのクラスは成績に応じて昇降が行なわれるので、メンバーが変わっていくものだが、最高峰A級に限っては下位2名が入れ替わるだけで、名人を含めた9名の顔ぶれは完全に固定されている。
 前期優勝し羽生名人に挑戦し、最終戦まで競った郷田真隆九段(38)は5期連続通算7期目。佐藤康光九段(39)は名人2期を含め連続14期目。前名人だった森内俊之九段(38)は名人5期を含め連続15期目。丸山忠久九段(38)は名人2期を含め連続12期目。木村一基八段(36)は連続3期目。藤井猛九段(38)は連続9期目。谷川浩司九段(47)は名人5期を含め連続28期目。三浦弘行八段(35)は連続9期目。
( )の年齢に注目してほしい。21歳で名人獲得最年少記録を持つ天才谷川が一世代上なだけで、みんなほとんど同じ世代。
すぐ下のB級クラスにも、同世代の深浦康市王位(37)、行方尚史八段(35)、 畠山鎮七段(39)、屋敷伸之九段(37)、先崎学八段(38)、鈴木大介八段(34)、堀口一史座七段(34)たちが牙城に食入ろうと虎視眈々と狙っている。
「新人類棋士」「チャイルドブランド」「羽生チルドレン」
「羽生チルドレン」はさすがに他の棋士に失礼だと思うが、こんな呼び名がまかり通るぐらい、この世代はひとくくりにされ、圧倒的な強さを誇っている。
彼らは小学校時代に若き天才谷川に憧れ、お互いがライバルとして大会で凌ぎを削り、同じ時期に奨励会の門を叩き、20歳ごろにはプロの将棋界を席捲するようになった。
しかしほんとうは、この世代にはもう一人とてつもなく強い人間がいた。
「東の羽生、西の村山」
平成10年8月8日、村山聖はA級に在籍のまま29歳で死んだ。

村山聖(さとし)は、昭和44年(1969年)6月15日広島県安芸郡で生まれる。
5歳の時に腎臓の難病、ネフローゼにかかっていることがわかる。広島市民病院を皮切りに国立原療養所など小学校時代は、ほとんど病院のベットの上で過ごす。
病棟ではお互いが詮索しない。「がんばれ」とも言わない。きのうまで笑っていた隣の女の子が、翌日には病室からいなくなる。風が運び去ったように。
そんな状況に耐えられなくなったとき、聖は発作のように癇癪を起こす。少しでも静まればと、父伸一は6歳の聖に将棋を教える。
毎日毎日、朝から晩まで将棋に戯れる聖。体に障るからと何度も看護婦に止められる。
81マスの宇宙の中に、聖は自分の王国を見つけた。
毎週土曜日が、聖が家族と面会できる日。母トミコは、頼まれた月刊誌「将棋世界」を持っていく。
外泊許可が出たときは、広島にある篠崎教室で腕を磨く。
聖は実力をつけていき、中国こども名人戦で5年連続優勝する。
小学5年生のとき東京に初めて行き、小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し敗れる。
小学6年の終り、抵抗力がついた聖は家に帰ることになる。
イベントで森安九段に飛車落ちで勝つ。
昭和57年7月、中学生名人戦に参加するため上京。ベスト8で敗退。
悔しさで唇をかむ聖を見て、父は帰りの新幹線の時間まで西日暮里将棋センターに連れて行く。そこで偶然出くわした伝説の真剣師、アマ名人でもある小池重明を破る。
「ぼく、強いなあ」
と小池の言葉に、聖は自信を取り戻す。

「大阪に行って、奨励会に入り、プロになりたい」
ネフローゼでいつ死ぬかわからない聖の夢を叶えてやろうと、両親は森信雄六段(当時四段)へ頼みこむ。
インドにふらっと放浪の旅に出てしまう、変人と言われた森から見ても、聖はかなり変わっている少年だった。
ネフローゼで青白い顔はむくんでいた。手足も陶器のように真っ白だった。はにかんでいつもうつむきかげんではあったが、真っ黒く意思的な瞳はキラキラと輝いていた。
大阪の関西将棋会館道場で、森は聖を初めて見て、一発で気に入った。
「あのなあ、靴下を履かんといかんぞ」
こうして奇妙な師弟関係が始まった。森30歳、聖13歳、昭和57年の冬だった。

聖は上阪すると森と同居する。
そしてしょっちゅう熱を出した。ネフローゼは体の抵抗力を奪ってしまう。
「師匠、40度を越えたら、ぼく死にます。今、何度ですか?」
「心配すな、39度や」
体温計はほんとうは41度をさしていた。

熱がよく出るので、聖は平気で中学校を休んだ。電話で「村山です。きょうも行けません…」
そう言っては、ずっと家で将棋盤に向かっている。
森師匠は熱で寝込む弟子の聖に、よく買い物を頼まれた。
おつかいの品は少女漫画。
「こんな本、どこにあんのかわからんなあ。これじゃ、どっちが師匠かわからんわあ」

聖は風呂も何週間も入らず、顔も洗わず歯も磨かなかった。風呂嫌いは師匠も同じだったのでお互い都合がよかった。
聖は爪も髪もひげも切らず、伸び放題だった。
「伸びるのはきっと意味があるんです。生きているのを切るのはかわいそうです」
あるとき対戦相手に「村山君は臭い」と言われ泣き出す聖を、髪の毛をつかんで、強引に散髪屋に連れて行ったりもした。

誰から見ても強い絆に結ばれた森と聖の師弟関係。
熱が出れば寝ずに看病をする師匠は、ときには、いっしょに布団に入り抱きしめながら介抱する。
「だいじょうぶか、だいじょうぶか…」
犬の親子のように、ひっそりとしかし力強くこの師弟は愛情で結ばれていた。

森の解放的で温和な性格もあって、森の家では奨励会員や若手棋士が集まってよく研究会が開かれた。
ちょうど学校から帰ってきた聖と、手が空いた森と一局指すことになった。寝食をともにしている師弟だが、対局はこれが初めて。
乱戦になったが、局面は徐々に森の必勝、楽勝形になっていった。森は師匠の貫禄を示すことができて、内心ホッとしていた。
「勝ったー!」
聖が森の王を取りあげてはしゃいだ。聖のやけくその王手を、気が緩んだ森が見過ごしてしまったからだ。
「師匠の王様を取る弟子がいるか」
一同はあっけにとられたが、森は予感した。
  勝負に辛い子やなあ。こいつは一流になるかもしれん。

一年間の師匠との同居を終え、聖は近くの家賃13,000円の前田アパートという木造モルタル、4畳半共同トイレの古いアパートに住む。
聖の部屋はすぐにゴミのようになった。3千冊の少女漫画で囲まれる、厳密にはマンガで部屋は埋もれた。
そして熱が出たら何日も寝込む。そのときはペットボトルを尿瓶代わりにする。
何日も弟子の姿を見なかったら、師匠はゴミのような部屋を訪ね、「おるんやろ、入るで〜」とドカドカと部屋に入る。ゴミの山の中から「師匠…、なんも食べてません…」と病明けの聖が這い出してくる。

トラブルで奨励会への入門が一年延びたのにもかかわらず、また奨励会入会後も入院で4回続けて欠席したりしたが、聖は圧倒的な勝率で奨励会では在籍2年11ヶ月という異例のスピードで四段に昇進し、プロ棋士となる。
村山聖四段、17歳のプロ棋士の誕生だ。このスピード記録は、谷川や羽生よりも早い。

ずっと将棋会館に入り浸り、検討室で主のようにいる村山聖(以降村山)。その存在感は知れ渡り、数々の伝説を残していく。
あるとき、関西将棋会館ではA級順位戦が行なわれていて、控え室ではプロ棋士たちが終盤を検討していた。そこへ大御所、内藤國男九段が入ってきた。
内藤は詰めの達人。盤面を一瞥し、
「これは、駒がぎょうさんあって、これがこうやから、うん、詰んどるな」
みんながいっせいに詰めの検討をしていたときに、
「あのう…」
「なんや」
「詰まんと言ってます…」
「はあ? だれがそう、言っとるんや?」
「村山君がそう言ってます…」
内藤がもう一度局面を戻した。たった一人の村山と、内藤やトッププロとの勝負になった。そして内藤が言った。
「う〜ん、捕まりそうで詰まんなあ。いや、たいしたもんや」
それからは関西将棋会館での合言葉は、
「終盤は村山に訊け」

東京将棋会館でも破竹の勢いで勝ちすすむ村山に周りが注目する。
ある日、上京して翌日の対局を控えた村山が、検討が行なわれている「桂の間」にひょいとやってきた。
盤面を一瞥して検討の輪に入ろうとせず、部屋の隅に崩れるように腰をおろしている村山に、先輩格の棋士が声をかけた。
「この局面、村山君はどう思う? 詰まないよね?」
みんながいっせいに村山を見る。
「詰みます」
そう言って、つまらんものを見たとばかりに再び身を沈めた。
いらだった先輩棋士が、「どうやったら詰むのかな?」
返答いかんによっては許さないぞ、とばかりにけんか腰だ。村山がひとこと、
「どうやったら詰まないんですか」
一生の病を併せ持つ村山は、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあったが、それでもその実力は誰もが認めるところとなり、人はいつしか「怪童丸」「東の天才羽生と西の怪童村山」と呼ぶようになった。

その羽生と村山が初対決した。
平成元年1月24日、C級1組順位戦、関西会館5階大部屋。14時間に及ぶ対局は深夜まで続いた。羽生は当時のことをよく覚えている。
「村山さんの体調が優れず、対局ができるかどうか微妙だという連絡を受けていました」
局面は終始村山ペースで進むが、最終盤での村山の緩手に羽生が見逃さなかった。午前0時48分、村山投了。
同年9月6日、若獅子戦決勝。村山148手にて投了。羽生優勝。
6日後C級1組順位戦、村山102手にて投了。羽生昇級。
一歳年下の羽生に村山はこの年初めて対決し、3戦全敗した。
「あの男、なんて強いんじゃ」
村山は棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意剥き出しの対応をすることが多かったが、羽生だけは特別の敬意を払っていた。憧れすら抱いたという。

同年6月のある日、雀荘にいた師匠の森のところに村山がふらりと訪ねてきた。
「どうしたんや、村山君」
何も言わずにニコニコしながら、村山は師匠のマージャンを眺めている。
「何か、ええことあったんか?」
はにかみながら、照れくさそうに村山は首をすくめた。
「ぼく、きょうで20歳になったんです…」
「ああ、そうか、それで?」
「20歳になれて嬉しいんです。20歳になれるなんて思っていませんでしたから」
そう言うと、村山は雀荘から出て行った。森は思った。
  村山君にとって20歳まで生きることは大きな目標やったんやな。よかったなあ、村山君。

村山のぽっちゃりしたほっぺの童顔、将棋に対する純粋な姿勢、まっすぐな性格、膨大な読書量から来る豊富な知識。
村山の周りには自然と友が集まった。酒も覚えた。一人旅もした。卓を囲めば2日間ぐらい平気で徹夜してマージャンをした。
聖は遅れた青春を取り戻すように、友と遊んだ。日々を楽しんだ。
  みんなは恋をしていいな。ぼくも結婚したいなあ。
少女漫画を愛する村山は、人一倍愛に飢え、女性に憧れた。結婚願望も口にした。
村山には2つの目標がはっきりできた。
一つは名人になること。もう一つは恋をすること。
しかし奥手で、病を併せ持つことに気後れしていた村山が恋愛をしたという話を、誰も聞いたことはなかった。

棋士は勝ち続けると地位も上がって収入も増える。村山がまず始めたことは、日本フィスター・プラン協会というボランティアへの寄付活動だった。東南アジアやアフリカの孤児たちに毎月仕送りをして、金銭的な親代わりになろうというものだ。
それは人知れず18歳から死ぬまでずっと続けた。
村山には収入や名声はどうでもいいことで、関心もなかった。ずっと13,000円の前田アパートを愛した。
成人になって活躍するようになったからといって、村山の体調がよくなったわけではない。血尿は繰り返し、体調は突然崩れることが多くなった。
対局の朝、部屋を出たのはいいが、アスファルトの上に崩れて不戦敗を覚悟する…。
10連勝以上を何度も記録しながら、対局中に体調を崩し集中力を維持できずボロ負けしたり、不戦敗も数多く記録した。
遊びを控え、また村山は将棋に没頭した。
盤面の相手とともに病魔とも闘っていた村山。そんな村山を将棋の神様は後押しした。
平成7年2月、村山のA級昇級が決まった。
村山聖八段の誕生である。
ネフローゼという厄介な病気を抱えながら、無我夢中で将棋の道を志した村山は、25歳になってやっと名人位を争うトップ10の仲間入りを果たすことができた。
その頃の将棋界は、羽生善治が前代未聞の6冠、すべてのタイトルを手中に収め歴史を塗り替えるまで、あと一歩というところまで来ていた。

平成7年秋、あの谷川を順位戦で倒す。破竹の勢いは続き、11連勝を記録する。対戦相手はA級棋士など強豪ぞろい。
「ストップ・ザ・羽生」は、もう村山しかいない。いつしかそう叫ばれるほど村山は充実した日々を送っていた。
平成8年、羽生は6冠全てを防衛して再び王将の挑戦権を手に入れた。
そして2月、谷川王将を4勝0敗で完膚なきまでに叩きのめし、将棋タイトルすべてが羽生善治という一人の青年のもとに集まった。

同年10月、村山は8連勝を記録する。それぞれのタイトル挑戦権も手に届くところまできた。誰もがこれから、羽生ー村山時代が来ると思われた。
この頃から村山の体調の悪さは深刻になる。血尿が止まらない。立ち眩みに襲われ、倒れるのを必死でこらえる。
村山は急に失速する。あと一手で勝てる将棋も落とす。
そんな中、平成9年2月28日竜王戦で羽生と対局する。闘病のため広島に帰っていた村山は、この対戦のため上京する。そして村山の生涯を代表する名局を完成させて無敵の羽生を下す。
平成9年3月、島八段に破れ村山はついにB級に陥落する。
広島大学付属病院での精密検査の結果、進行性膀胱癌が見つかり入院、片方の腎臓と膀胱を摘出する大手術を受ける。ただし、「脳に悪影響がでて将棋に支障がでては…」と抗がん剤・放射線治療は拒んでいた。これは村山が将来において、子供が作れなくなることへの危惧からでもあった。
大手術はしたが、休場することなく棋戦をその後も戦い続けた。
看護婦が隣の部屋で待機をしながら、命をすり減らす棋戦の日々。この頃の村山は驚異的な勝ち方を続けている。
師匠の森は、勝ち過ぎていることに不安を感じていた。
平成10年2月13日、田丸昇を下しB級1組8勝3敗、村山は降格わずか一年でA級復帰を決めた。
2月20日三浦弘行六段(現八段)を棋聖戦で下し、28日NHK杯決勝を迎える。
相手は羽生4冠。ここまで自分を強くしてくれた相手だ。終始村山有利で対局は進むが、終盤で村山はポカをして負ける。対羽生戦通算6勝7敗。
3月には5局の対局を全勝する。
村山はこのあと、1年の休場を決意する。ガンが再発していたのだ。

4月20日から広島に帰って村山は治療していた。
4月25日、広島市内で名人戦の解説会のイベントがあった。体調が悪くて寝ていた村山が夕方突然、イベント会場に自分を連れて行くよう父に懇願した。
「きょう、羽生さんがきているんや。どうしても羽生さんに会いたい」
中国電力ホールに向かう車の中で、村山は羽生とのあるシーンを思い出していた。

以前、村山は羽生とぱったりと大阪の将棋会館前で会ったことがあった。
村山は思い切って羽生を食事に誘った。
「あの、ぼくがご馳走しますんで、ぼくの好きな店でいいですか?」
「はい、はい。行きましょう」
うらぶれた定食屋「福島食堂」で、羽生と村山は向き合って焼き魚定食をうまそうに食べた。
村山のユーモアのある話に羽生がくったくなく笑う。2人だけの楽しい会話。
村山はいつまでもこの時間が続いてくれればいいなと思った。

平成10年8月8日、村山聖はA級在籍のまま、故郷の広島の病院で亡くなった。享年29歳。プロ通算成績は356勝201敗(12の不戦敗を含む)。
村山聖は薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「2七銀」が最後の言葉となった。


【参考文献】『聖の青春』大崎善生著・講談社青い鳥文庫

【村山聖の写真】師匠である森信雄七段のブログ「森信雄の写真あれこれ」の中に、弟子の村山聖さんの写真が15枚ほどあります。
http://blog.goo.ne.jp/goonobuo1952/c/b6ec8d9d88590fc7f3bdfed5d9256269
 
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