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過ぎた日の悲しみもみんな君にあげる

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月27日(水)00時11分29秒
編集済
  今年で不惑か。

まだ早いけど、中年の危機は乗り越えた。
 
 

(無題)

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)17時32分17秒
編集済
  アドルノは、理性の暴力性が、主体性の原史に既に刻印されている、と見るわけだけど、カントは、議論を、空間と時間から始める時に、この二つは現存在が感じられる限りのものとして、ア・プリオリに感じるものだ、としている。むしろ、人間の理性が、感性と悟性で認識できる、その裏側のいわば現代風に言えばデフォルトとしての「物自体」、つまり神には、人間は手出しをできないはずだ、という論法を採っている。

アドルノは、主体性を放棄することの危険性を繰り返し論じるわけだが、同時に理性は主体性に最初から刻印されていると見るわけだけだから、結局は、理性とは主体性の問題ということになる。

カントは、時間と空間は、人間が現存在としてある意味無条件に感じられるもので、人間が悟性を働かせることで超越論的に理性的統一、つまり超越論的統覚に至ると論じる上で、むしろその裏側のデフォルトな部分を論じるところにキモがある。

しかし、カントにしても、理性は当然に主体性と不可分のものとして論じられていることは、論をまたない。

カントは、主体性としての理性は当然のものとして論じているわけだが、アドルノは、むしろ、現代人は下手をすると理性の主体としての主体性それ自体を放棄してしまうことがあることの危険性に対して、警鐘を鳴らしている。

アドルノは、理性の裏側のいわばデフォルトな部分はタッチしてなくて、理性が暴力的にあらゆるものを計量的に測定可能な対象へと解消してしまうことを論じている。

漱石の「それから」における代助は、百合の香りの中に自己を全的に放擲し、理性そのものから逃れようと試みた時点で、やはりアドルノの圏域にいると見ていいだろう。
 

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)11時33分53秒
  コロナショックで大暴落したあと、各国政府・中央銀行の支援策でかえって大幅高になってるけど、1週間くらい前の日経新聞のコラムで、ビットコイン建てで見れば、むしろ逆に株価は大暴落してる、と書いてあった。

ここまで市中にマネーが溢れてること自体が、もう異常なのかもね。
 

サンキュ。

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)10時12分59秒
編集済
  熊野先生の名訳に乗せられて、ズンズン進んで来てしまいました。

カントのこと分かってるつもりで、微塵も分かってなかったね。

まさか、18世紀後半の段階でここまで考えたとは。

驚きを禁じ得ない。

まだ半分も読んでないけど、十分満足。
 

(無題)

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)08時49分22秒
  カントの空間と時間の議論から、原武史先生の空間政治学に繋げるのは、牽強附会かな?と思ったけど、むしろ逆で、原武史先生が、カントの議論から着想を得たと考えるのはどうなんだろう?

後は、カントとアドルノの啓蒙に関する問題をどう捉えるかだな。
 

(´-ω-`)

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)03時46分36秒
  いよいよ、父親も介護らしい介護になってきたね。

夜は自分が担当。
 

(無題)

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月26日(火)00時34分14秒
  とりあえず100ページ読んだ。

空間と時間について論じてる箇所だけど、要するに、現存在が感じられる限りのものだ、てことかな?粗っぽく言えば。

原武史先生が、空間政治学を提唱してて、明治政府は天皇の行幸による時間と空間の支配を通じて日本を近代化した、と論じてた気がする。

そうすると、夏目漱石の三四郎で、野々宮さんが、運動会でタイムウォッチで正確な時間を計ろうとすることにたいする主人公の嫌悪感が描かれているわけだけど、漱石は、そこに近代化への反発を感じていたのかも知れない。

三浦雅士さんによれば、運動会という催し自体が、戦争を前提とした国民の均一化という意味で、また近代化の一様相なわけであるが。

それはともかく、漱石の「それから」における百合の中への自己理性の全的放擲の試みも、やはり理性の精神に対する暴力的支配からの逃走であるとの解釈も、あり得る。

それはやはり、ナチズムを経験したアドルノの啓蒙に対する警戒と、平仄を合わせているだろう。
 

良かった

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月25日(月)13時58分43秒
編集済
  やたらいかめしい装丁の割りには、中身は読みやすい。

さすが熊野先生。

同じく熊野先生が訳した、ヘーゲルの精神現象学に比べれば、遥かに読みやすい。

・・・ようやく序文読み終わったけど、本論は、文字のサイズも大きいし、行間のスペースも広い。なるべく読者を萎えさせまいとする気遣いなのか?
 

永久保存版

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月25日(月)13時11分34秒
  純粋理性批判届いた。

さすがに8800円もするだけあって、ハードカバー&箱入り!

たまげた。
 

話を単純化し過ぎた

 投稿者:hk  投稿日:2021年 1月25日(月)09時20分33秒
編集済
  SFCも、3回目でようやく受かったわけだからね。

逆に言えば、2回落ちてるわけで、英語はともかく、小論文まったく書けなくて、いかに自分が小論文苦手かってのを、イヤと言うほど思い知らされたわけで。

それで、3回目でようやく受かったら、嬉しくないと言ったら、嘘になるよね。

だって、自分みたいなキテレツなヤツが書いた文章が、認められたってことだからね。

そら嬉しいよ。

放送大学だって、レポート書けなかったら、卒業かなり苦労しただろうし。

尤も、全然守備範囲外の科目なんかは最初から取らないけど。
 

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